月刊「広報」1997年5月号初出
武庫川女子大学言語文化研究所教授 佐竹 秀雄
筆者は、月刊『広報』の「広報クリニック」のコーナーで、全国各地の広報紙について用字用語の観点から批評をしている。その際、広報紙の文章中に見られやすい表現上の欠点に、幾つかのパターンがあることを感じてきた。そこで、それらのいわゆる悪文のパターンを分析し、それらがいかにして出現するかについて考察を加えた。以下は、その分析結果の報告要旨である。
データの対象は、1987年4月から1991年3月までの4年間、「広報クリニック」で取り上げた広報紙の記事である。広報紙の数は336紙で、チェックした対象ページ数は約1300ペ ージ。これらについて、「広報クリニック」で言及した事柄から、悪文要素を一つ一つ分解して抜き出し、それらを分類、整理した。その過程で、原文に戻って、どのような状況のもとで、その悪文要素が出現したのかを推察するという方法を採った。
一般に悪文と判断されるとき、まず二つの立場が考えられる。第一は、その文を読むときに理解しづらくて悪文だと判断する読み手としての立場であり、第二は、表現を構成する言語要素に分解して、悪文要素を分析的にとらえる立場である。
第一の読み手の立場からは、「分かりにくい」「読みにくい」「誤解される」「意味があいまい」といった理由が指摘される。それに対して、第二の悪文要素を分析的にとらえる立場では、悪文と判断される場合には、例えば、「修飾関係に誤りがある」「助詞の使い方がおかしい」「慣用句が誤っている」「敬語の使い方が間違っている」などがあり得る。そして、どちらの立場においても、理由は常に一つとは限らず、複数の理由が同時に複合して生じている複雑な場合もある。更に、これら二つの立場とは別に第三の立場もある。例えば、ある事実を伝えようとしたとき、その内容が事実に反していたり、事実のある一面しか伝えていなかったりすれば、それも悪文であろう。また、広報紙として住民の意見が十分に取り上げられていない場合も悪文になる。座談会記事で、無駄な発言を整理していないなども悪文になろう。
文章によっては、どのように表現しているかではなく、何を表現すべき内容としているかが悪文の根拠になる。表現の仕方の良否ではなく、表現の対象(内容)の良否が悪文判定の材料になるのである。
以上の三つの立場のうち、ここでは、第二の立場に立って、広報記事のデータについて悪文要素の分類をした。その結果、483件のデータについて言語要素レベルでの分類をし た。悪文の判定理由が二つ以上認められる場合は、原文に戻って、その悪文が生じた、より根本的な原因と思われるほうに分類した。その分類結果について、更に同種のものを、ある程度まとめた。その結果が以下の通りである。
悪文要素の分類
以下、要素別で多かったものを中心に、その悪文要素が出現する理由を推察する。
これらのうち、半分近くを占めていたのは、主語と述語の対応が悪いもので、次のような例が挙げられる。
リゾート開発計画は、各種団体などとそれらの問題について協議を行っています。
一般質問は、8人の議員が13項目にわたり町長の考えをただしました。
前者の例では、主語に対応する述語の形を「行っている段階です」のようにすべきであろう。後者の例では、主語のところが、「一般質問では」の形になれば、問題がなくなる。
これらの例で注目したいのは、原文の主語が「は」で始まっていることである。その「は」が述語と対応しないのは、書き手が、述語部分まで見通して主語を考えていないからである。話題やテーマ、すなわち、主題となる語にとりあえず「は」を付けて文を始めてしまい、その後、全体の文構造を気にせずに、主題に関して思い付くことを述べるために、主語と述語の対応に乱れが生じると思われる。
これらの中で最も多かったものは、意味上、不適切なもので、23例あった。
ゴミはきちんと分割し--
「受動的」から「能動的」といった比較が
このごろ、米の食味品評会が開かれたのですが、--
などで、「分割」は「分別」に、「比較」は「変化」に、「このごろ」は「さきごろ」とすべきものである。
そのほか、「語の選択」のミスとしたものには、難解な専門語や堅過ぎる語が使われていたものが含まれている。いずれも、一般の人にとって分かりにくい不適切な語が選択されているのである。これらは、結局、その表現でよいのかどうかの確認を、十分にしないままに言葉を使う態度に原因がありそうである。
長文は、一文の中に幾つもの内容を含んでいるものが多く、だらだらと言葉を続けるようなものである。
こうした長文が生じる理由は、書き手が表現対象を分析的に述べることができないためであろう。自分が見聞きした事柄や思い、感じたことを、再構成するのではなく、そのまま次々と述べ立ててしまう。そのために長い文ができてしまうのである。
この、ほぼ4分の3までが、「○○したり、○○したりする」の形式が崩れているものであった。
作品を展示即売したり、お世話になった方々にプレゼントしており--
建物を新築したり、増改築などをする。
などで、後半の「たり」の部分が崩れて、「○○したり、○○する」形になっている。
この形式の崩れが多かった理由は、新聞のせいであろう。新聞では、すべての場合ではないが、文字数の節約を考えるためか、「○○したり、○○する」形を採用することがかなり多い。この影響が随分と大きいと推測される。
敬語のミスのうち、半分以上が「過剰敬語」であった。中でも、問題だと思ったものは、
心身に障害を持つ方がいます。
「寝たきりのかた」「65歳以上のかた」
のように、心身障害者や老人に対する敬語の「かた」である。一般の人の場合には、「身内の人」「周りの人」「若い人」と「ひと」を使っているのに、弱者に対しては「かた」を使う。差別意識が裏返しになって表れているように思われる。そこには、健全な敬語意識のなさや敬語のバランス感覚の悪さが感じられる。
語が不足しているというのは、例えば、次のようなものである。
林地崩壊事業。
市民の皆さんの緑化推進の高揚。
それぞれ、「林地崩壊対策事業」「緑化推進意識の高揚」が省略されている。そのために意味が正しく伝わらない。この悪文要素の出現理由は、述べようとすることが、書き手には十分分かっているために、読み手にも分かっているような気になって、きちんと書かずに済ませるために起こると思われる。
構成として分類したものは、段落の接続がおかしかったり、文脈がうまく続いていなかったりするものである。そこには、段落意識の欠如が感じられる。
文体に含めたものには、デアル体とデスマス体が入り混じるもの、文末に「○○しています」や「○○しました」のように同じ形式が幾つも繰り返されるもの、話し言葉が書き言葉に混ざるものなどがあった。これらは、文章に対する統一感がないときや、文章全体を見渡す余裕のないときに生じやすいと思われる。
読点に関しては、21例中20例までが読点不足と判断されるものである。読点不足によって、読みにくかったり読み誤りそうになったりするものであった。
読点不足が生じる理由は、書き手にとっては、表現内容がよく分かっているために、読点が不足していても、読みにくいとか、誤解されるとか思いもしないからである。読み手の立場が無視されている。
以上の悪文要素の出現理由から、大きな欠点として次の2点を指摘することができる。
主語述語の対応の乱れ、段落の関係が適切でない、文章の構成が悪い、あるいは、文体での不統一などの理由として考えられたのは、文末まで見通して文を書くことができないということであった。つまり、全体の中で、その部分を位置付けしようとするのではなく、部分部分だけで処理しようとする態度に原因が見られるようであった。
語が不足したり、適切な表現が選択できなかったり、あるいは、読点の不足などが生じたりするのは、書き手が書く内容や情報を十分に知っていて、読み手も知っているかのように思い込むことが挙げられた。そのために、自分の感覚を中心に記述してしまい、必要な情報を書き忘れてしまう。中途半端な表現で済ませてしまうのである。そこには、読み手への配慮がない。
そして、次のような悪文出現のメカニズムが推測される。
文を書き始めるとき、まず主題を思い浮かべる。次に、その主題に関する全体を考えるのではなく、部分的に思い付くこと、感じることを書き連ねていく。部分部分を書き継いでいく。そのために長文が出現する。また、文頭の表現が文末に行き着くまでに忘れ去られるために、主語と述語の対応が崩れる。こうしたことが繰り返し行われるのである。そして、その過程で、記述対象となる主題の全体像を考えないのと同時に、読者にどのように読まれるかについても配慮しない。あくまでも書き手の知識、体験、感覚を中心として述べられるのである。
したがって、悪文を書かないためには、
対象への全体的な見通し
読者に対する配慮
を意識化する訓練がまず必要となろう。