月刊「広報」2002年7月号初出
あしコミュニティ研究所所長 浦野 秀一
広報紙に製作コストを表示するねらいは何だろうか。
よく、「水と安全はただではない」などといわれるが、まさしく行政サービスにもそれなりの経費がかかっているということにあらためて「気づかせる効果」はあるだろう。また、その経費はどこから捻出されているか、当然、われわれ住民自身が支払っている税金によって賄われているという「セルフ意識」も働いてくるかもしれない。
この二つの効果が行政と住民双方に期待できるのなら、広報紙へのコスト表示は大いに進めるべきであるし、もっともっと他の自治体へも広がっていってほしい。
しかし、私は、これはほんの第一段階に過ぎないということをあえて強調したい。製作費といった目に見えやすい数字だけでは、高いか安いかの判断はできても、「広報が担うべきコスト」、つまり、「広報がきちんと機能しているかどうか」の判断はできないからだ。
私が期待したいのは次の段階だ。コスト表示によって、そもそも行政サービス、広報活動にかかるコストとは何ぞやという議論が巻き起こってくるべきである。
一部当たりの製作単価はおそらく、編集費や印刷代など直接製作にかっかた経費を元にして算出される。発送・配布にかかった費用も含まれているかもしれないが、そのほかに、製作に当たった職員の人件費などはどう見たらいいのだろう。
また、こうした経費の面以外に、広報紙発行業務を見るための指標はいくつもある。実際に出来上がった広報紙がどのくらいのページ数で、何部印刷され、年間何回発行されたか、などだ。これらの数値は、コストというものを考える上で、どの程度反映されるべきなのだろうか。こうした疑問や論議が巻き起こってこなければ、コスト表示はそれこそ、単なる“表示”で終わってしまう。
その議論が起こることによって、私はさらに、次の段階に発展することを期待する。
例えば広報紙が毎月毎号、とてもいい企画で、住民の立場に立った紙面づくりができているとする。それによって、他の行政活動が円滑に、かつ効果的に行われ、その結果、住民と行政との良好な関係が築かれているとしたら、では、その効果、そのためにかかったコストはどう見ればいいのだろうか。これは製作費と違って目に見えない効果であるが、まさに広報はそれがねらいのはずだ。
こうして、単なる製作コストの表示という行為が、行政活動のコストをどこまで見るかというコスト論議に発展し、さらに、広報の本来の機能・役割・責任、「広報とは何なのか」という問い掛けまでつながっていって初めて、コスト表示が大きな意味をもってくるのである。現在、広報紙にコストを表示している自治体の中で、そこまで意識して表示したところがあるとすれば、これは一つの“経営戦略”といえるだろう。
効果を上げるにはコストがかかる。ここで私の持論でもある、広報にかかわる三つのコスト(効果)を披露したい。
まず第一に、「経済コスト」。これは、コミュニケーションツールとして、それを実行するために直接かかってくるコスト。例えば広報紙の製作費などはこれに入る。
そして第二は、「愛着コスト」。広報活動によって、地域に関心と愛着をもってくれる住民をどれだけ増やすことができるか。そこに住んでいるだけの単なる“住民”から、県民、市(区)民、町民、村民と呼べる人をつくるためのコストである。
そして最後に、「参画コスト」。関心と愛着からさらに、実際にまちづくりの現場に加わってくれる人をどれだけ育てていけるかである。
この「愛着コスト」と「参画コスト」を合わせて、私は「まちづくりコスト」と呼んでいる。経済コストと違って簡単に数値に表すことはできないが、広報にとっては大切なコストである。
ひところ、まちおこしの一環としてワインづくりが全国至るところで流行った時期がある。そんな状況を私は、「どこでもワイン」と言ってやゆした。
ある自治体がワインを製造し、まちの特産として販売し始めた。まちの名前が入ったその「地域ワイン」を首長や議員はこぞってPRした。敬老会や成人式などまちのあらゆる行事にワインが振る舞われ、皆上機嫌で祝杯をあげるなど、まちおこしの原動力になるかと思われた。
ところが、ほどなくして、民間の酒造会社が、同じボトルサイズで、値段が約三分の一のワインを売り始めた。値段だけで判断すれば、消費者は安いワインを選択するに決まっている。ワインでまちおこしと意気込んでいた関係者の意気込みは次第に弱まっていった。
もちろん、安くておいしいものができれば、それに越したことはないが、地域ワインには、経済コスト以上に求められるコストがある。ワインをつくったことによって、まちに愛着が生まれる。なおかつ、地元から生まれる素材を利用したり、絵心のある住民がラベルをつくったりといったように、あらゆる住民を巻き込んでワインがつくられているとすれば、その「愛着」と「参画」のためにかかったコストは、経済コスト以上に大きな効果を生むはずだ。
このワインをそっくりそのまま広報紙に当てはめてみたい。広報紙をつくるにはお金がかかる。これは経済的なコスト。その広報紙によって、まちに愛着が生まれ、あらゆる住民を巻き込んでいくことができたなら、単なる製作コスト以上の成果が生まれてくるのである。
広報は、広報紙をつくること自体が目的ではない。つくることを手段として、いかに愛着コストと参画コスト、つまり、まちづくりコストを生み出すかが、目的ではないだろうか。だから、こうしたコストのあり方を議論していくと、おのずと広報広聴の目的が見えてくる。
「どこでもワイン」が「まちづくりワイン」になり、ただ情報をやりとりするだけの「広報」が「まちづくり広報」になるには、単純に金額だけでは計れないところにもっと目を向けていく必要がある。民間ではないからといって、経済コストも当然無視はできない。低コストに抑えられればなおいいだろう。そこを考慮しながら、いかに愛着コストと参画コストをつくりだしていくか、広報戦略や、もっと具体的にいえば、広報紙などの企画を立てていくことができるかが重要になってくる。
これらのコストを見据えた戦略的な広報が展開されるのであれば、そのきっかけでもある広報紙へのコスト表示は、大いに評価できるのである。