トップページ > コラム > Net de コラム > Vol.35 読者に不快感を抱かせないための「記事の言葉」の姿
読売新聞では2002(平成14)年5月から断続的に「新日本語の現場」を連載している。これまでに取り上げたテーマを列挙すれば、「若者言葉」「カタカナ語」「職場の言葉遣い」「私立中学の入試問題」「テレビの言葉」「新しい方言」など。「日本語」を扱うため、言葉や表記には一般記事以上に注意を払ってきたつもりだ。デスクの私が最も気をつけるのは、使い方に誤りこそないものの、文脈によって不快感を呼び起こす言葉遣いである。
例えば「まで」という助詞。「東京から新大阪まで新幹線の『のぞみ』に乗りました」と書いたとしよう。この文章に違和感を覚える人はいないと思われる。「まで」は、動作・作用や状態の限度、到達点を示す意味があるだけで、書き手の価値観は類推できないからだ。
ところが、私は社会部の駆け出し時代、次のような原稿をデスクに出して、そのデスクに厳しく責められたことがある。
「農家の手伝いからナイトクラブのバーテンダーまで転々としながら資金をためた」
デスクは「この文章には、職業に対するおまえの主観が出ている」と指摘した。「なぜ『まで』を使うのか。心底に一定の価値観があると言われても仕方がないぞ」と。
私は「そんなつもりはない。記事の主人公がどれほど苦労したかを伝えたかっただけだ」と反論した。しかし、当時のデスクは私の弁明などには耳を貸さず、「農家の手伝いやナイトクラブのバーテンダーなどをやりながら」と筆を入れたのだ。
民主主義社会で職業に序列があるはずはない。ところが、この場合の「まで」には、極端な例を挙げて、普通の水準の事例を類推させる意味もある。つまり、私の文章は、書き手の私の意図とは関係なく、職業に序列があるかのように受け取れる結果を招いていたのである。
書き手がいくら弁明してみても、読み手に誤解を与える言い回しは、記事の文章には向いていない。読者に不快感を抱かせては、記事の言葉としては失格といってよい。「まで」はその典型だろう。
「まで」は、ありふれた言葉の一つだ。しかし、読者に不用意な誤解を与えかねないのなら、文脈によっては排除するしかない。「だから新聞記事は定型的、類型的な表現が増える」と批判もされるが、それは多くの目にさらされる新聞記事の宿命ともいえる。私たち記者は甘んじてこれを受け入れなければならない。
正しい文章表現は、情報を伝える上で欠かせない技術です。それに加えて、読み手に誤解や不快さを生じさせない、適切な言葉遣いが広報業務には求められます。
広報協会横浜セミナー2007では、今回執筆していただいた読売新聞東京本社解説部次長、左山政樹氏を講師に迎え、「広報する上で注意すべき表現・用語」をテーマに講演していただきました。