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Net de コラム Vol.21

真実のディスクローズ

米国は、言うまでもなく「メディア大国」である。PR技術の巧拙で、メディアに取り上げられるか否か、それによって望ましい世論形成がなされるかどうかが決まる。メディアに取り上げられやすいパッケージを作ることが、キャンペーンの死活問題にもなる。PRだけでなく、広告も併用した技術の巧拙も含めて、米国民は、常に、大は大統領選挙や戦争に向けての世論の動員から、小は商品の販促キャンペーンに至るまで、緻密(ちみつ)なキャンペーン戦略に裏付けられたコミュニケーションに晒(さら)されているといっても良い。

しかし、メディアを通して流れてくる、これらの膨大な「受け手に響く」「世論に影響力がある」情報群を眺めていると、常に「うそ臭さ」がつきまとう。あたかも19世紀末の米西戦争を煽(あお)ったイエロージャーナリズムの時代、偽りの情報が氾濫(はんらん)し、プレス・エージェントが跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)した時代に、アイビー・リーが、真実の情報の価値を提唱したように、「真実の情報の価値」への渇望が、米国民の間にどこかで沸き起こってくるようにもみえる。

マイケル・ムーア監督の『ボーリング・フォー・コロンバイン』や『華氏911』は、表向き、メディアを通して真実であると語られていることの胡散(うさん)臭さを、巧みに突いているともいえる。

コミュニケーションの戦略目標を達成するために、文脈上、都合がいい情報が強調され、都合が悪い情報が隠される、カードスタッキングは、キャンペーン戦略を成功に導くために、えてして起こり得る。しかし、行政が、都合が悪い(もしくは、住民の負担に結びつく)情報をディスクローズせずに政策を遂行しようとすれば、見えないところで、税金が使われ、政策が決定されているという不信感に結びつきかねないし、この財政難の中で、都合のいい事柄ばかりを見せること自体が、至難の業であろう。

その意味では、パブリック・リレーションズの本来の意味に立ち戻り、「戦略目標」をしっかり立てた上で、その目標に向け、キャンペーン戦略を展開しながらも、常に、「真実をディスクローズしていく」ことで、住民の評価というフィードバックを受け、コミュニケーションにより世論の支持を獲得していくことが、回り道のようでいて、行政への信頼、共感、さらには協働にもつながっていく。

そのための行政広報・広聴の役割を、しっかりと位置づけていくべき時期に来ているのではないだろうか。

かわかみかずひさ

1957(昭和32)年生まれ。東海大学助教授を経て現職に

 

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