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文章にケチを付けられると…

数年前、ある県の広報セミナーに呼ばれたときのこと。文章・表記に関する具体的なアドバイスをしてほしいということだったので、事前に送られてきた、その市町村の広報誌に入念に目を通して臨んだ。

県下の担当者50人ぐらいが参加していただろうか。最初はそれなりになごやかな雰囲気に感じられたが、いざ個別に広報誌を取り上げ、問題点を指摘し始めたあたりから、会場全体が息苦しいような、不穏な静けさになっていった。

予定時間を越えて話し終え控え室に戻ると、セミナーを主催した県庁の人から「いやあ、手厳しかったですねえ」の一言。とすると、あの静けさは、まるで教師にガミガミ叱(しか)られている生徒のような状況だったということか。たしかに、「質問のある方は遠慮なくどうぞ」とにこやかに誘ったにもかかわらず、来たのは若い女性担当者一人二人だけ。他の人たちはそそくさと会場から去って行った。

もとより、こちらはそんな気は毛頭なく、ひたすら今後の為(ため)によかれと思っての指摘だった。しかし、どうもそうは受け取られなかったらしい。県庁の人に、別れしな「もう二度と招かれることはないでしょうね」と言ったら、打ち消されなかった…。

まあ、どんなことであれ、悪く言われて喜ぶ人は普通いない。それにしても、こと文章になると、なぜかひどく敏感に反応しがちである。文章にケチを付けられることは、単に書く技術に関してだけではすまされない。それを書いた人の人格、さらには広報誌ならその組織まで否定されたような気がしてしまうのかもしれない。

しかしそれならば逆に、思う。己れの人格を懸けてまで文章を書いていると言えるだろうか、と。それを問わずして、自分が書いた文章に対する責任も倫理もまともに生まれようがないのである。とりわけそれらの所在があいまいになりがちな組織広報においては、個々の担当者につねに切実に突きつけられる問題であろう。そして、それを回避する限りは、誠実な広報にはなりえまい。

気は引けるが、こんな文章を書いている自分など、思いっきり棚に上げての話である。

はんざわかんいち

1954(昭和29)年生まれ。共立女子大学専任講師、助教授を経て現職に

 

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