大学は今、青息吐息である。この業界は本来、規制産業であり、特別な会計体系を持ち、本来は倒産とは最も無縁な、競争のない世界であった。90年代後半まで、我々大学人はこの甘い体質を享受できていた。しかし、今や少子化、規制緩和、点検評価、グローバル化、質保証等の時代の趨勢(すうせい)にさらされ、日夜改革を促され、そのような疲労困憊(こんぱい)な最中に、夢にも思わなかった「倒産」という2文字が具現化してきたのだ。
このような中で、大学は個性化を求められ、また自ら特色を打ち出す必要に迫られている。しかし、いくら頑張ってみても、大学自体が知られていない、あるいは中身を発信するツールがなければ、せっかくの努力が水泡に帰してしまう。今や、全国800校にまで膨れ上がった大学の、たった2割に6割の志願者が集中する時代である。幸い、我が明治学院大学は、その2割に入っているものの、いつ多数派に転落しないとも限らない。
この現実を前に、まずは明学を知っていただく、本学の理念を浸透させていくための取組として、2004年11月から「明治学院大学ブランディングプロジェクト」を開始した。その段階までに、私は入試広報や大学広報の実務的責任者の経験はあったものの、学長主導ということで、その責任者として企画課長の私が指名されたのだ。いままでの、受験生一辺倒の広報から脱却し、広く社会に訴求できるような広報への転換であった。
推進にあたっての強力なパートナーとして、アートディレクターに佐藤可士和氏を起用した。まさに時代の寵児(ちょうじ)との合体である。これ以降、広報室に引き継ぐまで、学長を含めたトライアングル体制で、疾風怒濤(どとう)の約半年を走り抜けた。
大学はトップダウンでも仕事がし難いところがあり、消耗戦の連続であった。しかし、それはまた楽しく充実した日々でもあった。ロゴとスクールカラーをまず決めて、グッズやホームページ、学内空間までも徹底的にデザインし直し、大学から発信されるありとあらゆるものが、同じ基調とコンセプトでぶれないように、これでもかと発信し続けた。この業界にとっては画期的な大事件であり、明学は大学の広報戦略の旗手となり、私自身もさまざまなメディアに登場する事態となった。
しかし、残念ながらブランディングプロジェクトの実態は、「もの」の発信に限られ、「中身」まで伝わっていない現状が浮き彫りになってきた。つまり、ロゴを目にして明学は連想できるが、どんな学部があって、どんな教育をしているかまでには思いが至らないのだ。ブランディングプロジェクトも、大きな曲がり角に差し掛かっている。
大学の、あらゆる活動が広報に直結している。ひいては、受験生獲得にもつながって、入学者となり、大学の存続に直結する。非営利団体の大学といえども、もはや広報は等閑視できない重要な課題となったのだ。
まちだ・あきひろ
1962年生まれ。86年明治学院大学に就職。教務部、入試センター広報担当主任などを経て、2002年4月より現職。
経営戦略・教学改革の企画・立案および実行調整、高大連携の推進、自己点検・評価(09年認証評価申請)の事務責任者。