わが国は、かつて、先進国の中で最も安全な国、治安が良い国といわれていました。都会でも地方でも、女性や子どもが一人歩きできる環境にありました。
ところが最近、その状況が急速に変わってきています。
昨今、テレビや新聞報道の中で犯罪にかかわるニュースの占める割合が大変多くなっています。犯罪の中には、外国人による犯罪であるとか、ヤミ金融業者などによる暴力的な取りたてなども増えていますが、なかでもいちばん顕著な現象は、青少年による犯罪が急増していることです。
しかも、いわゆる凶悪犯罪が増えていること、罪を犯した子どもたちの年齢が年々下がってきていることが大きな特徴です。罪を犯した子どもたちの証言、あるいは罪を犯すに至った背景などを調べてみますと、事態はたいへん深刻であることを認識させられます。
具体的に言いますと、人に暴力をふるい、あるいは人の物を暴力で奪う、最悪の場合には相手を死に至らしめる事件を引き起こしたにもかかわらず、子どもたちの多くが、悪いことをした、大変なことをしてしまったという自覚をもっていない、あるいは極めてその意識が乏しいということです。さらには、日ごろはきちんと学校に通い、親の目から見て良い子といわれていた子どもが罪を犯してしまうケースが少なくないことです。
わが国の将来を担うべき青少年の中に、こうした罪を犯す子どもたちが激増していることは、ゆゆしき事態です。政府、自治体はもとより我々市民が、真剣にその原因について考え、事態を抜本的に改善するための対策を早急に打ち出す必要があると思います。
青少年の犯罪が近年になって急速に増えている原因は、大きく二つあると私は思います。
一つは、子どもたちの育つ環境が以前と比べて大きく変わってきていることです。すなわち、私たちの世代あるいは私たちより少し後の世代までは、いわゆる大家族、3世代同居の家庭が普通でしたが、現在は、核家族化が一層進んでいます。また、かつては都市部でも農村部でも地域社会の連帯意識が強かったものですが、いまでは地域の人間関係や連帯意識が非常に希薄になってきていることです。こうした環境の変化が、子どもたちの成育に大きな影響を与えていると思います。
かつて大家族と地域社会の連帯の中で育った子どもたちは、人間としての基本的なルールやマナーを自然に身につけることができました。すなわち、他人のことを常に思いやること、もっと言えば、自分の主張だけで物事を考えてはいけない、大勢の人の中で自分たちは生きているという意識を自(おの)ずからもつことができました。別の言葉で言えば、社会性を身につけることができました。
これに対して現在では、子どもが育つ環境が大きく変わりました。6歳未満の子どもがいる世帯の約8割が核家族です。すなわち多くの子どもが夫婦だけの家庭で育っているのです。しかも父親は勤めに出ているため、母親だけが子育てを行う家庭環境で育った子どもが大半を占めるようになりました。
加えて、いまの子どもは一人っ子が多い。そのため、たとえば母一人子一人という環境で育てられた子どもは、社会性を身につけるチャンスがどうしても少なくなります。兄弟姉妹がいる、つまり自分のほかにも子どもがいる状態が望ましいのですが、一人っ子の場合は、自分の要求や欲求が常に満たされる環境の中で育ちがちです。その結果、学校や社会で自分の主張や欲求が通らない事態に直面すると、その欲求を満たすために罪を犯してしまう、そういう状況が起こり得るのではないかと思います。
それから、かつては都市部でも農村部でも地域社会の連帯意識が強く、子どもが人間としてのルールに反するような行動をとると、直ちに地域の人たちがそれを改めるようよう働きかけたものです。間違ったことは、親だけでなく隣近所の人も注意をする、社会全体としてルールが守られるように皆が影響し合う、助け合う、それが普通でした。
それが現在では、都市でも農村でも連帯意識が急速に薄れてきているように思います。都市の場合、たとえばマンションなどでは隣の人と顔を合わせることも話をする機会もほとんどない、お互い全く知らないといった状態が出現しています。また、農村部でも最近は通勤者すなわちサラリーマン家庭が増えており、隣近所の付き合いや地域での交流も以前のような密度の濃さはなくなってきたといわれます。
こうしたことから、地域社会がかつてのように、子どもたちを守り、社会人としての基本的なルールを教えるといった教育的機能を果たせなくなってきています。いわゆる地域社会の教育力が低下している状況があります。
青少年の犯罪が急増している原因の二つ目は、戦後の教育の在り方と関係があります。
ご承知のように、私たち戦前に育った人間は、親や兄弟を大切にしなさい、友達を大切にしなさい、国家あるいは社会に常に守られているという意識をもちなさいといったように、社会人としての基本的な道義をしっかり教えられて育ちました。道徳教育、倫理教育が行き届いていたのです。
それが戦後になると、一転して、家庭や地域社会ではもちろん、学校教育においても道徳教育、倫理教育が否定されるといいますか、軽視されるという状況が起こりました。
その一方で、学校教育においては個人の自由や個人の権利が強調され、かつ知的教育に熱心でした。その半面、社会人としての責任や義務についてはあまりうるさく言わない、等閑視されるという状況が続きました。
家庭においても、親が子どもをより良い学校に入れるように、より良い職場に就職できるようにと、知的教育には非常に力を入れました。しかし、社会人としての基本的な道徳を身につけさせることについては、親も関心を示さなくなっていきました。
このように、家庭においても教育の場においても、社会人としてのルールやマナーをしっかり身につけさせることの大切さが、なおざりにされてきた経緯があります。そうしたことが、今日の青少年犯罪の激増を招く一つの原因になったのではないかと考えております。
さらに言えば、諸外国たとえばキリスト教圏域では、宗教が人間の行動原理について大きな影響力をもっています。社会秩序を守るための基本的なルールについて、宗教が重要な役割を果たしています。わが国の場合、残念ながら、国民の日常生活の場で宗教が与える影響はきわめて少ない。ほとんどないに等しい状況にあります。
私は、以上のような家族構成の変化、地域社会における連帯意識の希薄化、学校教育に見られた道徳教育や倫理教育の軽視、さらには日常生活における宗教の在り方などが相互に影響し合って青少年犯罪の増加をもたらしているのではないかと考えています。これは国民にとって、地域社会にとって、国家にとって、ゆゆしき事態です。
このような状況に対処するため、政府や各政党は治安対策の強化すなわち警察官の増員や治安関係公務員の増員などを打ち出しています。しかし私は、昨今のような現象は、警察官を1万人増員しても解決できる問題ではないと思います。いまこそ、その根本原因を是正する有効な政策が求められていると思います。では、どうすればいいのでしょうか。
私はまず、幼児期におけるしつけ教育を徹底することが大切だと思います。しつけ教育は、従来、家庭の責任だといわれてきました。しかし今日の核家族のもとでは、実際にそれを実行するのは母親だけになりがちです。
しかし、母親自身が戦後の教育環境の中で育っていますから、母親自身が社会のルールやマナーの重要性、あるいは道徳教育の大切さついて十分な認識をもっていないことも、考慮に入れておく必要があると思います。つまり、そうした母親がしつけ教育の唯一の責任者になることには無理があるということです。
ここはどうしても、仕事で多忙な父親にも子育てへの参加を進めると同時に、社会全体で子どもたちを見守り、しつけ教育を施し、幼児期から人間としてのルールやマナーを身につけさせることが重要であると思います。
具体的に言いますと、現在、保育所は児童福祉法の規定により、保育に欠ける子どもたちだけが入れるようになっていますが、これを根本的に改めて、すべての子どもが幼児期から保育所で保育されるように制度を変えるべきだと思います。そして保育所においては、子どもたちに人間としての基本的なルール、しつけをしっかり教え込む。しつけ教育を徹底することです。
もちろんそのためには、保母さんや保父さんの教育から入らなければなりませんが、いずれにしても、保育所ですべての子どもたちに社会人としてのルールやマナーを身につけさせる、つまり、しつけをしっかり行う環境をつくり出すべきであると思います。
もちろん、そのためには多くの財源が必要になります。私は、この国の将来を守るための投資ですから、他の経費を削ってでも、あるいは多少の増税をしてでも当然やるべき政策であり仕事ではないかと考えています。
それからもう一つ。学校教育において、もっと道徳教育、倫理教育を強化するべきだと考えます。それも低学年から行うべきだと思います。もちろん知的教育は大事です。最近、学力低下がたいへん心配されていますが、その面での改善すべき点も少なくありません。しかし、それ以上に、人間としての基礎教育をしっかりやらなければ、この国の将来はなく、暗澹(あんたん)たるものになってしまうと思います。
社会人としての基本的なルールを身につけないまま知的教育ばかりを優先させると、道徳性に欠ける人間を生み出してしまう可能性があり、本人はもちろん社会全体としてもたいへん不幸な事態を招きます。そうならないためにも、私は、知的教育の前に道徳教育を優先させ、社会人として必要なルールをしっかり身につけた人間を育てていかなければならないと思います。
こうしたことについては、現在、政府も教育基本法の改正問題その他で議論をしていますが、正直言って、まだ事態の深刻さを正しく認識していないのではないかと思われる面が多い。私は、子どもたちのしつけをしっかり行い、また、しっかりした道徳教育を行うことが日本の将来のためにいま最も必要とされている施策であり、そのためには、増税してでも十分な方策を展開すべきであると考えています。
2003年(平成15年)10月掲載
石原 信雄 1926年生まれ。 52年、東京大学法学部卒業後、地方自治庁(現総務省)入庁。82年財政局長、84年事務次官、87年(~95年)内閣官房副長官(竹下、宇野、海部、宮澤、細川、羽田、村山の各内閣)を務める。 現在、公益社団法人日本広報協会会長、一般財団法人地方自治研究機構会長。 |